自分のギター歴

後藤晃のフラメンコギターブログへのご訪問ありがとうございます!

――ありがとうございます、なのですが、フラメンコギタリスト=後藤晃って何者?っていう方が大半と思われますので、まずは自己紹介として、自分の経歴や今までやってきた活動などを書こうと思います。

とは言え、先に申し上げておきますと、全くもって大した経歴ではないです(笑)

それでも読んでいただける方は、ありがとうございます!しばし、お付き合いください。

14歳でロックギターをはじめてフラメンコに転向するまで

自分は7歳から静岡に住んでいて、14歳のときにギターを始めました。

最初はメタル系のロックギターのコピーをやっていて、高校時代はバンド活動に明け暮れてました。

高校を出たあとはバンドの連中もバラバラになって、自分は1年間ほど浪人という名目で家でプラプラしてました。

本心はプロギタリストになりたくて、ギターの練習ばかりしてましたが。

ジャズに傾倒して音楽学校へ

その期間に習っていたギターの先生の影響でジャズに傾倒して、夜間清掃の仕事をしながら東京の音楽専門学校に通いました。

そこではジャズギターの基礎やインプロビゼーション・音楽理論を勉強しました。

東京に家がなかったので、レッスンを週のうち2日か3日間くらいに固めてもらって、弟や友人宅を転々としながら通いました。

レッスンが終わると静岡でひたすら掃除の仕事、また次の週東京、という生活で、交通費も新幹線は高いので東海道線で頑張ってました。

今考えるとかなり無理なことをしたもんですが、若さと情熱だけで動いていたと思います。

フラメンコギターとの出会い

高校の終わりころから、ロック・ジャズだけでなく世界中の色んな音楽に興味がわき、ワールドミュージック系のCDを買い漁った時期がありました。

その中で最も強烈な印象を持ったのがパコ・デ・ルシア(Paco de Lucia)のベスト盤でした。

凄い音を出すし、ジャズよりストレートな音楽性ですごく好みでした。早速、楽器屋で教則本を購入してフラメンコギターも練習しはじめました。

そして、東京の音楽学校に通い始めてからは、東京の先生について本格的にフラメンコギターを習うことにしました。当時、瀬田彰先生の教則本で独学していたので瀬田先生に習うことに。

衝撃のビセンテ・アミーゴ公演

瀬田先生に習い始めてしばらくたったころ、ビセンテ・アミーゴ(Vicente Amigo)の公演を見に行きました。

それが自分の中で本当に衝撃的で、もうジャズやロックは辞めて完全にフラメンコに転向しようと思ったキッカケでした。

それから半年ほど後に音楽学校を修了して、それからはフラメンコ一本です。

学生サークルで伴奏修行

音楽学校修了後も東京と静岡をいったり来たりしていて、瀬田先生に習いながら学生フラメンコのサークルに出入りして伴奏を勉強しました。

学園祭やイベントに呼ばれて演奏する事が多く舞台経験を積めたのが良かったです。

複数の大学に関わっているとイベントの回数が多く、ギャラが出ることも多かったので、新幹線代出しても黒字にできて非常に助かりました。

その間もずっと静岡での仕事は続けていて、結構な額溜まってきたので、かねてからの夢だったスペイン留学をすることを決意しました。

スペイン留学

スペインではどうしても習いたいギタリストがいました。

アグスティン・カルボネル=エル・ボラ(Agustin Carbonell “bola”)です。

フラメンコを習い始めてから日本で手にはいるフラメンコの音源は片っ端からテープにダビングして静岡での仕事中(夜勤の清掃)はウォークマンでずっときいていましたが、その中でも彼の曲やギタープレイに惚れ込んでしまい、マドリードに住んでると知って絶対にレッスンを受けたい、と思っていました。

エル・ボラに交渉

スペインに行ってからは情報誌でフラメンコのライヴ情報を読みあさりました。

エル・ボラのライヴは必ず行って拙いスペイン語で交渉しましたが、ちょっと気難しそうな人で最初はまったく相手にされませんでした。

そこでどうしようかと思ったんですが、少し前に別件でフラメンコライターの志風恭子さんに会って名刺をいただいていたんですよね。

彼女はスペインのフラメンコアーティストの間ではライター・写真家として有名な存在でその名刺にはスペインでの連絡先も書いてありました。

何かのときに、とスペインにその名刺を持ってきていたのを思い出し、ダメ元で電話して、一緒に話をしてもらえないかお願いしてみました。

そしたら、なんと快く引き受けてくださったんです。「自分は今セビージャにいるけど来週はマドリーだから来週ならいいですよ」と。もう感謝しかありませんでした。

そして次の週、またエル・ボラのライブに行き、現場で会うことになったていた志風さんと一緒に話をしてエル・ボラに一生懸命自分の気持ちを伝えました。

そしたらエル・ボラから「来週水曜日、2時に来てくれ」と言われて、住所を書いた紙を渡されました。もう、興奮して脳汁がとまりませんでしたよ。

志風さん、ほんとうにありがとうございました。

ボラのギターレッスン

さて、ボラのレッスンですが、こちらのレベルに合わせるとか一切無しで、自分の曲をだーっと弾いて、やってみろ、みたいなかんじで、彼のプレイは素晴らしいんですが、リズムも音も複雑すぎてとてもその場で理解できません。

指の運びだけなんとかおぼえて、アパートに帰って録音をききながら譜面におこしてリズムとコードをとって、ひたすら練習して次回きいてもらう、という方式でした。

そんな感じでしたが、彼はジャズに非常に興味があり、自分は幸いジャズギター経験があるので、レッスンの後必ずジャズセッションになって、それが彼も楽しかったらしく、忙しいなか、週一回、半年間に渡ってレッスンをしてもらえました。

スペインでは他に数人のギタリストにレッスンを受けたり、踊りのスタジオに行って踊り伴奏をしたりしていましたが、一番の目的だったエル・ボラの音楽に身近に触れられて、自分にとっては、それがほんとうに貴重な体験でした。

帰国後は静岡でプロ活動

スペイン留学でお金を使い果たしてしまったため、帰国したはいいんですが、東京に家を借りるにしてもお金も仕事の当てもなく、しばらく静岡の実家にごやっかいになることに。

時間はあるので、まず静岡にあるフラメンコスタジオをまわり、ギターの仕事を開拓しました。

そのうちに踊り手さんの一人と仲良くなり、一緒にスタジオをやることになります。

しかし、実家での気楽な暮らしはそう長くは続かず、予期せぬ事件が立て続けに起こって、最終的に実家は売却、家族は離散という形になってしまいました。

実家が消滅して以降もしばらくは静岡で踊り伴奏やギター教室などやってましたが、当時は「静岡ではこれ以上活動を広げるのは難しい」と考えていました。これ、今思うとそんなことないと思いますが。

2003年の春頃、実家関係のゴタゴタが全て完了したのを契機に「やはり東京でギタリストとして活動したい」という気持ちが強くなって、自分はかねてからずっと考えていた東京移住を実行に移すことにしました。

東京へ移ってからの活動

2003年の夏に東京に出て来てからは、踊りの伴奏活動増やすために営業活動をしたり、フラメンコポップグループ「Galeria Rosada」を立ち上げたりして頑張っていました。

2005年にはPCを購入し(それまで15年間ほどPC無しの生活をしていました)、それまでMTRで音楽制作していたのをPCベースに切り替え、DTMも勉強して約1年半かけてGaleria RosadaのCDを作り上げました。

Galeria Rosadaは最終的にはボーカリストの脱退という形で活動休止ということになってしまいましたが、当時はCDを全部自力で作るっていうのは日本のフラメンコの業界では珍しかったので、CD制作・ライブ録音の仕事が来るようになったり、CDを聴いた他ジャンルのアーティストに作曲やアレンジを依頼されたりもしました。

この体験で「何かの形にして残しておく」ということの重要性を認識し、それは現在のブログやコンテンツ制作の大きな動機となっています。

長い長い停滞

これから先はギタリストとしては暗黒時代に突入します。

2009年ごろから自分にとっては辛く苦しい時代が5、6年続きます。
諸事情あり、とてもギターに集中できるような状態ではありませんでした。

ギターの仕事も積極的にこなせる状態になく、営業活動を縮小していきました。

――そんな状態が2015年頃まで続きました。

2015年春に転機到来

2015年春、真剣に現状を見直す機会がありました。

思うようにギターが出来ない現状を変えたくていろいろ努力もしました。

それ以来、情況は少しずつ好転して、自分は自由な時間の確保に成功したのです。

――それからはギターを再び頑張りはじめました。

まずは、今まで憶えたフラメンコのファルセータを全てさらって譜面にするところからはじめ、その後はフラメンコ以外の音楽の勉強にも着手し(1993年以来23年ぶりくらい)、2年間で500曲ほど採譜してコード分析などしました。

この時は仕事にする、しないはあまり考えず、まず自分の中でギタリストとして色々立て直したかったので、かなり集中して取り組みました。

現在の状況

今も2015年からの取り組みの延長線でギターに向き合っていますが、徐々に外に向けた活動をしなければ、と考え始めました。

それを受けて、またいろいろな事を考えはじめました。

自分自身がどう生たいのか?とか、ギターとの関わり方とか、今まで状況に負けて後回しにしてしまって、深く考えることから逃げていた問題です。

「ギターとの関わり方」に関しては明快に答えられますが、どんな状況になろうと、可能な限り、ギターは続けていきたいし、このブログ冒頭で書いたように、これから外に向けて発信し、人と共有していく、というのは進めていきたいです。

その思いが当ブログを始める動機でしたし。

ですが、現実問題としてほぼゼロからの再スタートなので、問題山積で何から手を付けたら良いものか途方に暮れているのも事実です。

現状は変化していくものと思いますので、このブログでも報告していきたいです。

楽器や芸事を真剣にやっていこうという人は多かれ少なかれ、自分と同じような問題にぶつかることがあると思うので、そういう「生き方」の問題も話題にしていきたいと思います。

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