これから「フラメンコ音楽論」の連載を開始します。
概要は予告編で申し上げた通りですが、自分はギタリストですので、ギタリスト目線で、フラメンコ音楽の謎に迫っていこうと思います。
ダイジェスト版フラメンコの歴史
最初に、フラメンコという芸術が成立してきた歴史をダイジェスト解説します。
歴史を知ることはフラメンコを理解する上では非常に重要なことです。
ですが、あまり深入りすると膨大な文章量になって、本題の音楽論に入るまでに凄く時間のかかりそうな代物です。
ここでは、これから話を進めるうえで、最低限必要な予備知識として1回分の記事で収まる内容にまとめてお届けします。
興味あるかたは専門書もありますので、詳しくはそういったものをご覧ください。
フラメンコの源流
フラメンコの「本体」はスペイン・アンダルシア地方のヒターノ(ジプシー)が口伝で伝承してきた歌=カンテです。
最初はギター伴奏も踊りも付いていませんでした。
鍛冶屋とか炭坑夫とかのおじさんが仕事中に唸っていた仕事歌が発祥と言われていますが、録音も楽譜も残っていないし、謎が多いです。
初期のフラメンコ(歌)はヒターノの仲間内だけで披露されていました。
プロ歌手などというのも存在しなかったし、全くのブラックボックスだったんですが、あの複雑で個性的な音楽形態がどうやって編み出されたのか、ロマンを感じますよね。
グラナダ王国とアラブ文化
フラメンコや一部のアンダルシア民謡は、使われる音階やリズムが明らかにヨーロッパ系のものと異なります。
歴史を遡ると、グラナダ王国の存在が浮上してきます。
アルハンブラ宮殿に象徴されるアラブ・イスラム系勢力のヨーロッパ最後の拠点です。
中世の一時期、スペインのほぼ全土がイスラム系勢力の支配下にありましたが、キリスト教勢力側のレコンキスタ(国土回復運動、十字軍)により、スペインからイスラム系勢力が駆逐されていきました。
ですが、アンダルシア地方だけは「グラナダ王国」として、レコンキスタ後も250年間に渡り、1492年までアラブ・イスラム系の国家が存続し、その支配下に置かれていたのです。
ヒターノ云々以前に、アンダルシアという土地自体がアラブ文化の影響を色濃く受けている、というのが一つの要因としてあります。
ロマの系譜
アンダルシアのヒターノ含め、ヨーロッパ全土に散っているいわゆるジプシーは、もともとは「ロマ」と呼ばれる流浪民で北インドからヨーロッパまで流れてきました。
フラメンコで使われる音階もインドからアラブへと渡ってきた音階の系譜です。
- グラナダ王国経由のアラビア音楽の直接的影響
- 古くからの地元の民謡
- ヨーロッパの他の地方からの西洋音楽の影響
- ロマの系統であるアンダルシア・ヒターノの独自要素
これらが数百年かけてフュージョンされて、ヒターノの労働者の仕事歌などとして少しずつ醸成、伝承されてきたものと思われます。
カフェカンタンテの時代
19世紀に入り、カンテフラメンコはファンダンゴなどのアンダルシア民謡も取り入れつつ発展していきます。
スペインの民衆音楽ではギターでの伴奏が一般的でしたので、フラメンコの伴奏にもギターが使われるようになります。
そして、19世紀後半からプロ歌手的な人も登場しはじめ、カフェ・カンタンテ(直訳は歌声喫茶)と呼ばれるフラメンコの歌をショーとして見せる店が流行、カンテフラメンコは大発展を遂げました。
当時のヒターノ達には大きなビジネスチャンスでしたので、工夫を凝らして自分達の芸を磨いていきます。
カンテのレパートリーも増えていき、主要なフラメンコの形式が確立されていきました。
20世紀に入り、世界大戦とスペイン内戦が始まると、カフェ・カンタンテも下火になって徐々に姿を消し、フラメンコはふたたびアンダーグラウンドへと潜っていきます。
これと入れ替わる形で、カンテ・ボニートと呼ばれる、当時の流行歌を採り入れたスタイルが流行しましたが、全体としては戦時下で芸能活動全般が停滞していたようです。
一方で、各地でカンテフラメンコのコンクールが開催されるようになり、優れた歌い手を輩出、カンテ・フラメンコはその命脈を保ちます。
カンテ発展期の高名な歌い手には以下のような人達がいます。
- シルベリオ・フランコネッティ(Silverio Flanconeti)
- エンリケ・エル・メジーソ(Enrique el Mellizo)
- アントニオ・チャコン(Antonio Chacon)
- マヌエル・トーレ(Manuel Torres)
- アントニオ・マイレーナ(Antonio Mairena)
- ニーニャ・デ・ロス・ペイネス(La Niña de los Peines)
- マノロ・カラコール(Manolo Caracol)
現在のフラメンコの主要レパートリーのほとんどは、彼らが編み出したものと言っても過言ではありません。
ギターでは、一世を風靡したのがラモン・モントージャ(Ramon Montoya)です。
彼は伴奏だけでなくクラシックギターの奏法も取り入れ、独奏スタイルのフラメンコギターを提唱して現在のフラメンコギターの基礎を作った人です。
現在でも弾かれる定番フレーズのかなりの部分を彼一人が作ったという天才・巨匠です。
終戦後のフラメンコ
終戦後、フラメンコも復興を果たします。
歌中心のカフェカンタンテにかわり「タブラオ」と呼ばれる踊りを入れたフラメンコショーをやる店が人気を博し、以後主流となっていきます。
タブラオを舞台にバイレ(踊り)の分野も大きく発展していきます。
この時期、有名なギタリスト、歌い手、踊り手が多数出てきますが、中でも有名なのは、カルメン・アマジャ(Carmen Amaya)とサビーカス(Sabicas)です。
彼らは戦時中からアメリカ大陸に移住してアメリカでの公演に力を入れ、大好評を博して、フラメンコを一気に世界に広めました。
1970年代から1980年代ごろには、パコ・デ・ルシア(Paco de Lucia)、カマロン(Camaron)、アントニオ・ガデス(Antonio Gades)らの時代になり、フラメンコも時代に合わせて変化していきます。
踊りの劇場公演なども盛んに行われるようになりました。
その後を、トマティート(Tomatito)、ビセンテ・アミーゴ(Vicente Amigo)、ホアキン・コルテス(Joaquin Cortes)、ポティート(Potito)、ドゥケンデ(Duquende)、エル・シガーラ(Diego el Cigala)らが受け継ぎ、現在に至ります。
なお、1970年代以降のフラメンコ現代史の部分は、こちらで詳しく解説しています。
新しいフラメンコ
1990年代からはケタマ(KETAMA、彼らはフラメンコの名門アビチュエラ・ファミリーの子弟が中心)をはじめとした、フラメンコ側のアーティストによるフュージョン音楽も盛んになります。
自分がフラメンコギターをはじめた時期である1990年代前半は、そういった新しいフラメンコ音楽や、ビセンテ・アミーゴやトマティートをはじめとしたモダンスタイルのフラメンコギターが一気に開花してきた時代にあたり、そのサウンドに自分は夢中になりました。
日本で手に入るCDなどを片っ端から買い漁っていたものです。
スペイン留学時代も、日本では手に入らないフラメンコフュージョン系のCDが沢山売られているのに興奮して、滞在期間中に(純フラメンコのものと合わせて)150枚以上CDを買って、手では持ち帰れなかったので船便で日本に送ったら到着にえらく時間がかかって本当に届くのか不安だった覚えがあります。
スペインでは、ずっとマドリードだったんですが、それ系のライブも毎晩のようにどこかでやっていて500円とか1000円で入場できたりしたので、見まくっていました。ほんとに大興奮でした。――すみません、ちょっと脱線しました。
フラメンコ音楽は独自ルールの塊
以上、ダイジェスト版フラメンコの歴史でしたが、これだけでもフラメンコの特殊性がご想像いただけるかと思います。
フラメンコはアンダルシアのヒターノ社会という、閉ざされたコミュニティのなかで発展してきたため、超ガラパゴス的で謎の独自ルールだらけです。
フラメンコの音楽に初めて接する人はこんな感想持つのではないでしょうか。
- かっこいいけど、どうなってるのか全く分からない
- 伴奏の付け方がわからない。コードの変わるタイミングも謎
- 歌がどこから入ってるのか謎だし、Aメロとかサビとかハッキリしないので掴めない
- 踊りを見ているとキメみたいなところで急に全員で静止したりするけど、どういうルールなのか分からない
- リズムの頭がわからないし、ノリかたが分からない
これからこういった事を、なんとか一般に分かる言葉に翻訳して解説していこうと思います。
コメント
さて、いまから本論ですね。楽しみにしています。
>>1
コメントありがとうございます!
今まで頭の中だけで考えてきたことを
なんとか形にできないかと思っております。
自分の勉強も兼ねてやっていきますので
よろしくお願いいたします。