第3世代アーティストの活躍【フラメンコ音楽論33】

今、フラメンコ音楽論では「フラメンコ音楽現代史」というテーマを扱っていますが、前回はフランコ政権が倒れた1970年代後半が現代フラメンコの幕開けである、ということをやりました。

今回は、その時代の当事者であり、現代のフラメンコに直結する「第3世代」のアーティストの活躍を中心にお話ししようと思います。

第3世代は1930年から1950年あたりの生まれで、1960年代から2000年代くらいを中心に活躍した世代です。

現役世代の1つ上の世代ですが、未だ現役バリバリの人もいます。

パコとカマロン

現在のフラメンコ音楽を語るうえで、絶対に外せないのが、カマロン・デ・ラ・イスラ(Camaron de la Isla)とパコ・デ・ルシア(Paco de Lucia)の2人です。

彼らはフラメンコの革新者と言われますが、現代フラメンコ音楽のかなりの部分を彼ら2人が作ったと言っても過言ではありません。

自分がフラメンコギターを始めたキッカケもパコ・デ・ルシアのベスト盤でしたし、当時カマロンの最新作だった『Soy Gitano』(1989年、ビセンテ・アミーゴも参加)もすぐに買って愛聴盤となりました。

それからしばらくしてカマロンの遺作となる『Potro de Rabia y Miel』(1992年)が出て、間もなくカマロンが亡くなるんですが、確かプリメラギター社でギターで遊んでいたときに、鈴木英夫先生から第一報をきいた記憶があります。

カマロンはまだまだ若かったので、非常にびっくりしました。

カマロン・デ・ラ・イスラ(Camaron de la Isla)

上に書いたように、自分はカマロンのキャリアの最後のほうしかリアルタイムで体験していないんですが、カンテというジャンル自体がカマロン以前とカマロン以降で明らかに変容しているし、カマロンは現代のカンテを語るうえで間違いなく最重要な人物です。

カマロンの歌唱スタイルの変遷

1980年頃を境に音楽アレンジとともに、カマロン自身も歌唱スタイルも大きく変えています。

1970年代までのカマロンのスタイルは伝統的なカンテのラインを美声で滑らかに歌うスタイルでした。

それが1970年代後半あたりから、煙草の吸いすぎなのかわかりませんが、声変わり(?)して、歌のラインもより自由に歌うようになります。

聴きようによっては、ロック、ソウル、R&Bなどのアメリカンな要素を入れているようにも聴こえます。

具体的には『Rosa Maria』(1976年)あたりから歌唱スタイルが変わりはじめ、1970年代終わりの『Leyenda del Tiempo』あたりからアレンジ面も実験要素が多くなり、1983年の『Calle Real』あたりで新しいスタイルを完全に確立しているように感じます。

カマロンの変容には賛否両論ありますが、彼の新しい歌唱法は圧倒的な支持を集めて、多数のフォロワーを産み出します。

ディエゴ・エル・シガーラ(Diego el Cigala)などはカマロンの直系だと思うし、現代の歌手でカマロンの影響を受けていない人はほとんどいないんではないでしょうか?

パコ・デ・ルシア(Paco de Lucia)

パコ・デ・ルシアはフラメンコ史上、最も有名なフラメンコギタリストですが、カマロンの伴奏者でもあり、音楽・アレンジ面でカマロンを支え、リードしてきました。

パコ作品とカマロン作品のネタ被りなど

パコとカマロンの作品を聴き比べると、カマロンの伴奏で弾いたファルセータを自分のアルバムでソロギター曲にしたり、逆に自分のソロ用に作曲したものをカマロンの歌伴奏用にアレンジして弾いていたりして、かなりの割合で共通のネタを使っています。

音楽面ではパコがリードしていた

そしてパコ・デ・ルシアのほうがカマロンより一足早く、1970年代の前半くらいから新しい試みをして、独自のアレンジ手法やフュージョン的なものもやりはじめています。

こうしたパコの新しい事に挑戦する姿勢が、その後のカマロンによるカンテの革新に決定的な影響を及ぼしたのは間違いないと思います。

パコ・デ・ルシアはアルバム作品(邦題)でいうと『霊感』『魂』あたりの1970年代初頭くらいから、伝統的フラメンコギターの殻を破るようなアレンジを試み始めていますが、決定的な革新となったのは『二筋の川』(1973年)に始まり、『アルモライマ』(1976年)あたりで完全に達成されていると思います。

パコによるフラメンコ音楽の革新とは、ギターのフレージングなどもありますが、最大のものはベースギターやパーカッションを導入したコンボスタイルによるアレンジです。

その少し後には、アルディメオラ、ジョンマクラフリンとのセッションも盛んに行っていて、そういうフュージョン音楽側からの影響も大きかったと思います。

21世紀に入ってからもパコ・デ・ルシアは第一線での活躍を続けていましたが、2014年2月25日に静養先のメキシコで心臓発作で急逝しました。66歳でした。

――このように1970年代後半から1980年代にかけて、カマロンとパコ・デ・ルシアの2人によってフラメンコ音楽に大変革がもたらされたわけですが、この時代の他のアーティストのことも見ていきたいと思います。

フラメンコギター3人衆

1970年代から1980年代にかけて、フラメンコギターの世界では「三羽烏」「三人衆」と例えられるような3人の大物ギタリストが活躍していました。

マノロ・サンルーカル(Manolo Sanlucar)、ビクトル・モンヘ・セラニート(Victor Monge “Serranito”)、そして前述のパコ・デ・ルシアです。

マノロ・サンルーカル(Manolo Sanlucar)

マノロ・サンルーカルはビセンテ・アミーゴ(Vicente Amigo)の先生として有名かも知れません。

ビセンテ以外にも、ラファエル・リケーニ(Rafael Riqueni)、チクエロ(Chicuelo)など名だたるギタリストがマノロ・サンルーカルの門下であり、まさにフラメンコギター界のゴッドファーザー、大マエストロ的な存在です。

マノロの演奏スタイルは、音を途切れさせずにずっと滑らかに繋いでいくフレージングが特徴的で、彼のギターは聴くとすぐそれとわかります。

どちらかというと左手の技巧が素晴らしく、細かい運指とポジション移動でコードを細分化するような動きが多いです。

弟のイシドロ・サンルーカル(Isidro Sanlucar)もギタリストですが、腕利きの音楽プロデューサーでもあり、名だたるアーティストの音源作品をイシドロが作りました。

(追記)
2022年8月27日にマノロ・サンルーカルが亡くなったという情報が入りました。享年78歳。ご冥福をお祈りします。

ビクトル・モンヘ・セラニート(Victor Monge “Serranito”)

セラニートは3人衆の中ではやや年長で、ギタープレイのスタイルも3人の中では一番伝統的なものに近いです。

セラニートの特徴は驚異的な技巧と倍テンポでのフレージングです。

ima3本指での超速音階がトレードマークでしたが、それまでは8分音符を中心にフレージングされていた形式(ソレアなどテンポがゆっくりのもの)を16分音符中心のフレージングで演奏したり、高い技巧を土台にした細分化がセラニートのギタープレイの特徴です。

第2世代のギタリスト達

1970年代あたりの時期は、まだ第2世代のサビーカス(Sabicas)やカルロス・モントージャ(Carlos Montoya、ラモン・モントージャの甥)なども健在で盛んに活動していました。

サビーカスはセラニートやパコ・デ・ルシア登場以前は技巧で言ったら断トツだったんですが、老境に入ってからも全く衰えなかったらしいですね。

初期のパコ・デ・ルシアのスタイルはサビーカスからの影響が色濃いです。

第3世代の歌い手

第3世代の歌い手に関してはウトレーラ姉妹(Fernanda Utrera、Bernarda Utrera、世代的には第2世代に入れるべきかも)、フォスフォリート(Fosforito)、テレモート・デ・ヘレス(Terremoto de Jerez)など、伝統派の名歌手は多数居ますが、カマロンに対抗しうる革新者として、エンリケ・モレンテ(Enrique Morente)を挙げておきたいです。

エンリケ・モレンテ(Enrique Morente)

エンリケ・モレンテはエストレージャ・モレンテ(Estrella Morente)の父としても有名ですが、彼もカマロン同様、1970年代頃までは伝統的スタイルのものをやっていて、1980年代から実験的な作品を多数残しています。

エンリケの特徴は歌唱法です。

カマロンとはまたぜんぜん違う方向性ですが、細分化された複雑な音程を、美声で滑らかに歌っていくものです。

アラブ音楽で使うような微分音を駆使した歌は物凄く特徴がありますが、スタンダードなカンテとは少しイメージが違います。
なので、フラメンコファンの間では好みが別れるところだと思います。

この特徴的な歌唱法は娘のエストレージャにもしっかりと受け継がれています。

スペインでエンリケ・モレンテのライブを何回か見たのですが、爆音パンクバンドとのコラボだったり、かなり先鋭的なこともやっていました。

また、エンリケ・モレンテのカンテの知識の深さはフラメンコ界でも指折りで、学者的なイメージもある人ですが、エンリケの家に招かれたこともある友人によると、物凄く親切で良い人だったらしいです。

バイレについて

この時代のバイレについても少し書いてみようと思います。

第二次世界大戦後、スペイン本国ではタブラオ・フラメンコが盛んになってバイレが本格的に発展しますが、オピニオン・リーダー的存在のカルメン・アマジャ(Carmen Amaya)はフランコ政権の独裁を嫌って、戦時中からアメリカに渡り、ブロードウェイの劇場公演などで活躍します。

カルメン・アマジャに関しては、自分的には「孤独な突破者」というイメージで、突然変異的な天才が1人で数十年先行したことをやっていた、ということかと思います。

一方、スペイン本国では戦後、グラン・アントニオ(Gran Antonio)の舞踊団など、徐々に劇場などの大きな舞台でもフラメンコが演奏されるようになっていきます。
グラン・アントニオに関してはカルメン・アマジャ同様、アメリカ・ブロードウェイでの公演も有名ですね。

その後の第3世代の中で、最も重要なアーティストとして、アントニオ・ガデス(Antonio Gades)を紹介します。

アントニオ・ガデス(Antonio Gades)とスペイン国立バレエ団

アントニオ・ガデスは10代の頃にピラール・ロペス(Pilar Lopez)に見いだされて舞踊団に参加、その後に自分の舞踊団を立ち上げて精力的に活動します。

そして1978年にスペイン国立バレエ団が設立されると、初代の芸術監督に就任します。

ガデスは、テアトロ・フラメンコ(フラメンコの劇場公演)という形を、世界的なエンターテイメントとして通用するレベルまで押し上げた立役者です。

ガデスが創立に関わったスペイン国立バレエ団は、クラシコ・エスパニョールとフラメンコに力を入れていて、その公演を舞台にテアトロ・フラメンコのノウハウが蓄積されていき、アントニオ・カナーレス(Antonio Canales)、クリスティーナ・オジョス(Cristina Hoyos)、ホアキン・コルテス(Joaquin Cortesp)らを輩出しています。

大きな劇場での公演は、一度に沢山の観衆にアピールてきるので、フラメンコの認知度を上げるのに寄与したものは計り知れないと思います。

実際、日本でも踊りの人口が8割以上で、そのほとんどがそういう劇場での公演でフラメンコに触れて自分もやりはじめた、という人の比率が高いですから。

――今回は第3世代のフラメンコアーティストの活躍をご紹介しました。

パコ・デ・ルシアのCDのキャッチフレーズだったと思いますが「片手に伝統、片手に革新」というのがあります。

カマロン、ギター3人衆、ガデスらのアーティストはまさにこれを体現していて、彼らの情熱が現在のフラメンコの発展の土台を作ったわけですが、1980年代後半あたりからは、さらなる新世代のアーティストが続々と登場してきます。

次回からは第4世代=現役世代のアーティストを紹介して参ります。

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